話芸における浪曲の特殊性<1>

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Posted on 2013/12/14 by

浪曲を聴きはじめて間もない人と話をしているとときどき、「言葉が聴き取れない」「話の筋がわからない」といった感想を聞くことがあります。しかし、私はこういった感想を否定的なものだとはあんまり思っていません。なぜかというと「でも面白かった」と言葉を続ける人が結構いるからなんです。これはいったいなぜなのか、説明するのは難しいのですが、、

 

その手がかりとして、まずは三波春夫先生の言葉を引用します。

たとえば物語が理屈に合わなくても、面白くて、いやーよかったなあ、今日の浪花節は、しかし筋は何だったけな、というぐらいで、私はいいと思うんですよね。

三波春夫botより引用:元発言

 

ここで、三波先生の仰っていることというのは実はとても重層的で、ある意味で誤解を招きます。少なくとも「テキトーでいいじゃない。」と仰ってるわけではない。

現在の歌の型に至るまで、先祖たちが血みどろになって作り続けた、藝と夢と魂に学ばなくて、人の心をうつ歌やドラマが作れるだろうか?

三波春夫botより引用:元発言

 

つまり、「先祖たちが血みどろになって作り続けた、藝と夢と魂に学」んだうえで「しかし筋は何だったけな、というぐらいで、私はいいと思うんです」と仰ってる。テキトーなものだからテキトーに楽しんでくださいという話ではないわけです。いや、こういうことはなかなか言えません。普通は自分が苦労した分だけ「わかってください」と声を大にするものです。なんという覚悟。

三波先生のこういう覚悟は、おそらく浪曲の構造的特質を稽古によって身に染み付かせた結果、生まれたものではないでしょうか。私が考えるところ、浪曲の構造的特質とは

  • ・啖呵(セリフ、語り)
  • ・節(歌)
  • ・三味線

 

という要素が複雑に絡み合うという基本的構造が生み出すものであると思います。

浪曲において「啖呵」とはいわゆる「節」つまりメロディ部分でない語り要素を示します。啖呵において、立て板に水のごとく、たたたっと語られる部分(おそらく節談説教や講談の要素を取り入れたものだと思います)はある意味で音楽的でメロディアスです。しかし、講談の修羅場読みを音楽だと認識する人はあまりいないのと同じように、あくまで語り部分。と思って聴いていると三味線がガンガンに浪曲師を煽り、そのまま節へ突入したりする。かとおもうと節の中によく使われる「道中付け(登場人物の移動の過程を地名を織り込んだ洒落を交えた情景描写で描く節)」では三味線が小気味いいメロディを刻んでいるにも関わらず、浪曲師は節のメロディアスな要素を控えめにして、リズミカルに畳み込む。これは啖呵にも近しい。また、啖呵の中では三味線が主人公の心理描写から情景描写まで様々な効果音を鳴らす。

つまり、浪曲においては語り要素と音楽要素は融合しあっていて、あたかもグラデーションのように「語り90%,音楽10%」〜「音楽100%」くらいまでの中で分布しているような状態になっている。

こういう構造は他の芸能ではちょっとないのではないでしょうか。例えば、説教節、琵琶歌、瞽女唄などの楽器による伴奏を伴う「語り芸」においては、どちらかというと節が主であって、語り要素はそれほど強くありません。こういう融合的要素もあるのでしょうけれど、ここまで分布が広くはなさそうです。これは浪曲が説教節、琵琶歌、瞽女唄などより後の時代の芸能であり様々な芸能の要素を雑食的に取り入れて技法が多様化したこと、それまでの伴奏を伴う「語り芸」が弾き語りであるのに対して浪曲は太夫と曲師の分業で複雑な演奏が可能になったことに起因するのではないかと考えます。

つまり、三波先生が仰るところの「先祖たちが血みどろになって作り続けた、藝と夢と魂に学」んだ結果が浪曲という芸そのものとして結実しているわけです。まさしく芸の構造がそれを示しているのですから間違いない。ジャズ的に言うならこれはフュージョン。ロック的に言うならプログレッシブ。もっと言うならミクスチャー。レッチリとかレイジを聴くつもりで聴け!

すいません、悪ノリしすぎました…。

こういう複雑な構造的特質が観客にどういう印象を与えるのか、そして「言葉が聴き取れない」「話の筋がわからない」といった感想に「でも面白かった」と続ける人がいるのか、そして三波先生が「たとえば物語が理屈に合わなくても、面白くて、いやーよかったなあ、今日の浪花節は、しかし筋は何だったけな、というぐらいで、私はいいと思うんですよね。」と仰ることとどう繋がるのか、などはまた次回以降に考えていきます。