話芸の魅力。

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Posted on 2013/12/05 by

浪曲の魅力について考える前に「話芸」の魅力についてまとめておきたいと思います。小沢昭一さんが仰ったようにこの国には多くの「語り芸」があります。節談説教、説教節、琵琶歌、瞽女唄、万歳、漫談、漫才などなど。なかでも浪曲は日本三大話芸「落語、講談、浪曲」の一つとされています。それらはほんとうに多種多様で一口に「話芸」とか「語り芸」とか括っていいものだろうかと思えるほどです。私なんかがその特性を比較するなんてことは全く無理で、すべてに共通する点は「人が語る」ということ以外にないんじゃないかと思えます。しかし、こんないい加減な解説あっていいものだろうか。とはいえ文章で特徴を説明できるくらいならそもそも「話芸」である必要ないのです。文章でその魅力を示せるのならば、それは文章に回収される程度のものなのであって、そこからはみ出る部分こそに魅力があるはずです。

「人が語る」のと「本を読む」のとは違って「間」と「感情」が生じます。抑揚や発音や身振り手振りが自然と物語に膨らみを持たせるのです。同じ物語をちがう演者が語ることで物語はまったく違う表情をみせることがあります。いや、同じ演者が違う日に演じても違う表情を見せるときもあります。これが「人が語る」ということなのだと思いますし、演者はその為に同じ演題を長い間演じ続けて磨き上げるわけです。また、観客もそれがわかっているから、同じ「話」をなんども楽しめるわけです。「同じ話を何度も聞いてよく飽きないなぁ」なんてなことを言う人もいますが、それくらい聴くからそういう細部がわかるようになるのですね。

かの昔、ラジオもレコードもテレビもなかったころ、「琵琶法師」が平家物語を語ってあるいたように、「よみうりや」がニュースを語りながら瓦版を売ったように、語り芸は一種のニュースソースだったのでしょう。しかし現代においては、わざわざ出かけなくても、自宅のテレビやパソコンからニュースが溢れ記録が溢れています。それらは「話芸」が伝える情報より遥かに情報量が多く、リアルで、しかも何度でも確認できます。

「話芸」は本来聴いたそばから消えていく「消えもの」の芸。演者の記憶と体が再生装置の代わりです。「なまもの」ですから、当然のごとくその都度の調子、演者の成長に従って細部が変わります。録音や映像にも、そのときの演者の状態が入り込んできますから、生身の人間が演じるものであるというその本質は変わらないはずです。さらに、聴く人の状態によっても違って聴こえます。なので情報としては偏っていて、イイカゲンです。記録としては心もとない。その意味では「同じ話を何度も聞い」ても同じようには聴こえないんですね。

「話芸」が魅力的なのは、「話」ではなく「芸」、つまり「語り口」といううつろいやすいものの魅力のためではないかと思います。観客は語り口に乗せられて、想像で情景を膨らませます。それは小説からも芝居からも映画からも得られません。「偏っていて、イイカゲン」な欠損があるからこその楽しみで、そのなかのデティールの細やかさにこそ魅力が宿る、一種の転倒した、しかし、とても豊かな営みなのです。

なので「話芸」を楽しむには生の舞台を見るのがいちばんいいんです。

このつづきにはこれを踏まえて、「話芸」の中における浪曲の特殊性について書きたいと思います。